ポーランドへ(2006/06/28)
トゥラカイから戻り、ポーランド行きの夜行バスに乗る。ポーランドの首都ワルシャワまでは8時間の道程だ。4時間ほど経ち、ポーランドの国境付近に来たとき、ものすごい長い距離に渡りトラックが連なって停車している。はじめは渋滞しているのかと思ったが、どうやら国境待ちのようだ。国境審査待ちの列は5,6kmにも達している。乗用車やバスは国境審査が別のレーンで行われるので、トラックの横をグングンと抜かしていく。毎晩このような大変な審査待ちをしているのだろうか、トラックの運転手はどの国でも大変だ。
ヨーロッパに入って嬉しいことは、国境越えがすごく楽になったこと。バスに審査官が乗り込んできて、その場で入国スタンプを押してくれる。実に楽ちんだ。
国境越えが終わった頃、深夜2時ぐらいに外を見ると、当たり前だが空が真っ暗だった。2週間ほどバルト三国にいて白夜を味わったおかげで、夜でも薄っすら青空の様子に見慣れていただけに、空が真っ暗になる情景に、ちょっと可笑しい話だが嬉しくなった。やっぱり夜は空が暗くなるほうが、夜らしくて良いのだ。星が見えないのはつまらない。
朝の5時にワルシャワ中央駅に到着した。ワルシャワの旧市街は第二次世界大戦でドイツ軍により徹底的に破壊されてしまった。しかし、戦争後、街の人達の記憶を総動員して、壁のヒビ一本にいたるまで、忠実に再現して街を復元したと言われる。この復元された歴史地区はユネスコ世界遺産に登録されている。中央駅に着くまえに川の対岸・橋の向こうからこの旧市街地を初めて見た時、これが復元された街だとは俄かには信じられなかった。ヨーロッパの昔を大切にする人の不屈の精神は素直に凄いと思う。
あの旧市街を見ると、ワルシャワで一泊でもしたくなるが、有名な負の遺産であるアウシュビッツに近い"クラクフ"に行きたかったので、クラクフ行きのバスが出ている西バスターミナルに向かう。クラクフはワルシャワとは逆に、ドイツ軍の司令部が置かれていたため、戦災を逃れ中世の街並みがそのまま残されている。
クラクフへはバスで5時間。ワルシャワに着いたばかりだが、行動できるときに一気に動いておこうと思い、飛び込むようにバスに乗り込んだ。夜行バスでは、ほとんど寝られなかったので、ポーランドのなだらかな丘のつづく、見渡す限り緑の芝が一面に生える素晴らしい景色を走行中にも、気にせず熟睡していた。
クラクフに着くと、たった一日で随分と南下したせいか、外に出るとムワっと暑い。7月ももう目前だ。嫌なのは、日本に似たような湿度の高い蒸し暑さだ。
疲れているし、まずは宿を決めて落ち着きたい。トラムを乗り継いで、少し中心街から離れたところにあった、大学の学生寮を一般にも貸し出しているところに3泊する事にした。学生寮なだけあって、なかなか騒がしいが、キッチンなどの設備が揃っているので気に入った。
後から気がついた事だが、この学生寮は中欧ではプラハのカレル大学に次ぐ歴史の長さを誇る、1,364年に開設されたヤギェウォ大学の学生寮だった。頭の良い奴らばかりだ。ちくしょー。
3泊の間にアウシュビッツや他の近郊にも行ってみたいと思う。宿で重い荷物を降ろすと、気が楽になったのか、元気が出てきた。まだ夕方なので、クラクフの街を散策することにした。さすがは、世界遺産の街だ。観光客が多すぎな気もするが、歴史の古い街らしく芸術的な薫りを感じられる。道ゆくと、パントマイマーやバイオリンを弾く人、ラッパやフルート吹き、馬車の走る音など、様々なもので、目と耳を楽しませてくれる。僕らはアウシュビッツがあるから、中継地として滞在するだけの街として思っていなかっただけに、予想以上に感じの良い街で気に入った。
アウシュビッツ(2006/06/30)
昨日、ヴァヴェル城や王宮などクラコフ旧市街をほとんど観光し終わったので、今日は郊外にある負の世界遺産・アウシュビッツ Auschwitz(左はドイツ名、ポーランドではオシフィエンチム Oswiecim)に行く。この有名な第二次世界大戦中の強制収容所は、クラコフからはバスで1時間半ほどの距離にある。アウシュビッツに着くと、雨が降り始めた。ポーランドの今の季節は日本の梅雨にそっくり、ジメジメした湿気の多い暑さがある。傘を持ってくるのを忘れた僕らは雨にうたれながらの見学となった。
現在、このアウシュビッツ跡地は博物館となっており、収容所の入り口だったゲート「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」の門をくぐると、28もの囚人棟があり、それぞれが博物館として公開されている。中にはガス室、銃殺に使われた死の壁、飢餓室などがあり、収容者から没収した、衣服や靴、眼鏡、義手・義足、トランク、ブラシなども公開されていて、150万人以上も殺害された悲惨な歴史の重みを感じさせる。
アウシュビッツから3kmほど離れた所に、さらに広大な強制収容所がある。第二のアウシュビッツといわれた"ビルケナウ Birkenau"だ。鉄道の引き込み線が引かれた"死の門"と呼ばれたゲートをくぐると、あたり一面に草の生い茂った場所に、当時のままの鉄条網に囲まれた中に木造のバラックが建ち並んでいる。内部はそのまま残されており、収容所の恐ろしさを目の当たりにした。
今日も、これらの殺人工場とも言うべき跡地に沢山の人が訪れていたけど、皆一同に悲痛な表情をしていた。これらの事実を目の当たりにして、何も感じない人間などいないと思う。また、同じような歴史を繰り返さない為にも、こういった負の歴史事実は後世にも伝えていくために、正確に残しておくことが大切だ。広島・長崎の悲劇も、もっともっと世界中に見てもらわないといけないのではないだろうか。
ヴィエリチカ(2006/07/01)
今日は8時にクラクフで3泊した学生寮をチェックアウトする。というかしなければならなかった。何故かというと、7月からは大学が休みになり、寮生も帰省して誰もいなくなるからだ。なので今日は、22時発の夜行列車でスロヴァキアに向かう。それまで、時間があるので、クラクフ近郊にある世界有数の岩塩採掘場であり世界遺産でもある"ヴィエリチカ Wieliczka"に行こうと思う。今日もあいにく雨が降っているが、地下坑道なら関係ない。
ヴィエリチカはクラクフからは本当に近く、鉄道で30分のところにある。クラクフは旧市街とアウシュビッツ、それにこのヴィエリチカと近くに3つも世界遺産があるという実に珍しい場所だ。
ヴィエリチカは1250年頃~1950年代まで稼動していた岩塩採掘場で、長い間掘り続けた結果、地下300m、総距離300kmにもなる、まるでアリの巣のような坑道ができあがってしまった所。このような坑道なので、強制的にガイド付きで回らなければならない。そのため入場料が高く46ズウォティ(1,650円)もする。地下の巨大な空間を利用した坑道内部には、塩で作られたシャンデリアやマリア像などがあり、地底湖もいくつかあった。よくもまあこんなに掘ったなと、感心するばかり。しかも、昔は塩を運ぶのに滑車を使ってはいたが、人力や馬を使って動かしていたようで、地上何百メートルまで持っていくのに、恐ろしく大変だったことだろう。
ヴィエリチカを午前中にみて、再びクラコフに戻ってくると、まだ昼の1時頃だった。まだまだ列車の時間まで余裕がある。まだしてなかった、旧市街にある聖マリア教会の塔に登って、クラクフの街を上から見てみたり、ちょうど民族ごとの踊りを披露するイベントが行われていたので、楽しんで時間を潰すことができた。