「エジプト・アラブ共和国」シルクロードを放浪した2006年の旅行記

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ダハブの海(2006/09/07)

今日はダハブに行く。バカンスだ!リゾート地なら各国の料理がそろってるだろう。正直、アラブ料理に体が拒絶反応を示すくらい疲れ果てていたので、1週間くらいダハブで骨休めしようかと思う。

昨日、不測の事態で泊まることになったヌエバの港町からは、バスで1時間。エジプトは観光立国だからだろうか、他のアラブ諸国よりもテロに対する警戒が厳しい。
たった1時間、ひとつの町に移動するだけの距離なのに、町の出口と入り口に検問所があって、計2回もパスポートチェックがバス車内でおこなわれた。(後に調べたら、2006年4月24日にダハブで連続爆破テロがあり100人以上の死傷者がありました。いまだ瓦礫の山になってる場所があったりする。)

ダハブのビーチ沿いダハブでは、ちょっと贅沢にエアコン付きの部屋にした。実は昨夜、汚い宿に泊まったところ、すさまじく暑くて、とてもじゃないが寝られなかったからだ。でも物価が安いので、エアコン付きでも一泊50ポンド(1,000円)程度。せっかくバカンスにきているのに、数百円をケチって暑い部屋で寝るのはアホらしい。

さっそくビーチに行ってみる。驚いた!浅いところはエメラルドグリーンで、深くなっているところはサファイアのような綺麗な青色をしている。これは潜って水中を見ないと勿体無い。スーパーに行き、シュノーケリングセットを買ってきて泳いでみた。

ダハブの海これが、海の世界か!水中で何度も何度も驚いて感動して、感嘆の声を何度も何度もあげていた。30m以上の深さまで鮮明に見えてしまう透明度。マシュラバリーフという海の中の断崖のようなところには、生きた珊瑚がビッシリとあり、そこにはいままで見たこともない、色鮮やかな熱帯魚の群れ!魚はあまり逃げようとしない。むしろ餌をもらえると思っているのか近寄ってくるので、熱帯魚を間近で見れて、群れとともに泳ぐことも出来る。50cm以上もある魚も沢山泳いでいる。すごく感動した。言葉ではとても言い表せない。すばらしい思い出になった。

エジプト考古学博物館(2006/09/12-13)

なんだかんだで5日間、紅海のリゾートである"ダハブ"でバカンスしていた。ダイビングは値段が高いので、結局手が出せなかったけど、シュノーケリングでもかなり楽しめたのでよかった。十分に骨休めが出来たので、本格的に遺跡巡りに動こうと思う。今日は夜行バスで首都カイロに向かう。

夜11時発のカイロ行きのミニバス。車内は狭いので荷物を車の屋根にくくり付けて走る。バックパックに入れてあるパソコンが砂でやられないか心配だ。
ミニバスは周囲に町明かり一つない砂漠の道を直走る。砂漠の砂によりアスファルトがガタガタになっている道を100kmほどのスピードで飛ばすので、お尻が宙に浮くほど揺れる。それに、夜の砂漠で何故か濃霧が発生している。視界が3mくらいしかないのに100kmのスピードだ。ちょっと死を覚悟した。加えて、シナイ半島はやっぱりキナ臭い感じが漂っている。夜だから余計にそう感じてしまうのだろうが、テロリストにロケットランチャーなどでバスごと吹っ飛ばされたら一撃だろうな。そして肌寒い。半袖では我慢できないくらいなので、たぶん気温15℃前後くらいだと思う。夜の砂漠がこんなに温度が低くなるとは思いもよらなかったので、上着などもってない。風邪引きそうになった。それにテロへの警戒か、何度も検問でパスポートチェックが行われて、気を休める暇もなかった。おかげさまで一睡も出来ないまま明け方になり、スエズ運河の下をくぐる道を通ると、ついに初めてのアフリカ大陸に入った。カイロには早朝7時に到着。もうヘロヘロで吐きそうにだったので、適当に宿を見つけて昼まで寝ることにした。

起きてから、すぐ近くにあるエジプト考古学博物館に行く。ここはツタンカーメンの黄金のマスクがある有名な博物館。入ってビックリ。博物館の許容量以上の展示品が置いてあるので、スゴイ文化財なのにまるで物置状態。その中でも一番奥にある黄金のマスクは本当に金だった。もっとペラペラに薄く延ばした金なのかと思ったら、しっかりと分厚く重そうだ。

エジプト考古学博物館それにしても、これらの展示品を見ていると、エジプト文明に対して様々な疑問点が生じてくる。やっぱり、紀元前3000年という遥かな古代に、このような高度な文明があったことがものすごい不思議だ。
面白いのは、中王国時代よりも、古王国時代の方が、像とか精巧に造られているように思う。というよりも、技術力自体が古王国時代から、紀元後まであまり変わっていない気がする。ピラミッドも現代の技術をもってしても説明がつかない部分がいくつもあるらしい。ギザの三大ピラミッドのひとつ、最も大きいクフ王のピラミッドも古王国時代のものだ。後の時代のピラミッドの方が小さく、建築方法も雑になる。しかも、古王国時代のピラミッドから石材を取ってきて再利用した痕跡もあるらしい。
こうなると、なにやらまるで技術力だけ初っ端からマックス状態で始まったような感じを受けてしまう。だから宇宙人と関係が?、などという説がでてくるのも無理からぬことかもしれない。というか僕も展示品をみていると真面目にそう思ってしまった。発掘された展示品の中に、どう見ても宇宙人の顔や姿にしかみえない土偶も沢山みられたので、うーんと真剣に考えてしまった。
それにしても、古代エジプト人の建築物や装飾品のおもしろいデザイン力には感心する。驚くほどに生き生きとした造りで、今にも動き出しそうだ。

人類の叡智ピラミッド(2006/09/14)

世界七不思議のひとつであり、その中で唯一現存しているピラミッド。この旅でピラミッドだけは絶対に行こうと決めていた。それがもう目の前にある。カイロからバスでたったの1時間の距離にあるギザの三大ピラミッドだ。

ギザのピラミッドピラミッドの頂上部に残る大理石部ギザに近づくと、忽然と姿を見せた四角錐の巨大建造物。思っていたよりも遥かに大きい。
およそ4500年前の日本というと、稲作すらなかった縄文時代だ。竪穴住居に住み狩猟採集生活を営んでいた。それと同じ頃、エジプトでは文明が起こり、高度な数学、天文学、物理学をもち、ヒエログリフという文字まで発明した。国家事業として巨大なピラミッドが建造された。同じ地球上にあって、これほどまでに文明の差があったのが俄かに信じられない。しかし、抗えない事実としてそれが目の前にある。

現在では頂上部が10mほど失われて、となりのカフラー王のピラミッドよりも低くなってしまったが、建造当時は最も大きかったクフ王のピラミッド。本来は底辺が一辺230m、高さは146m、そして平均2.5トンの石を約230万個積み上げて造られた。

ピラミッドの横で持ってきた方位磁石を使い方位を調べてみると、それぞれの一辺がキッチリと東西南北をピッタリと示していた。この驚嘆すべき正確な方位の測量技術に加え、ピラミッドの基底部を水平に設定する方法、また現代の技術をもってしても困難である巨大な石材の切り出しと運搬方法、そしてその切り出した膨大な量の石材を積み上げるのはどうやったのか、いまだ謎に包まれている。
ピラミッドの綺麗な三角形しかも驚くべきことに、ギザに現存する最も巨大なクフ王、カフラー王、メンカウラー王の三大ピラミッドは、わずか40年ほどの間に三基とも作られたという。もし現代の技術をもってして、同じピラミッドを三基、内部も再現して作るとしたら、はたして40年で完成するか疑問だ。莫大な資金が必要になるだろう。何台の重機が必要だろうか。

夏は暑すぎるので、エジプトは今の時期シーズンオフらしい。でも、そんなに暑すぎるというほど暑くない。これならヒートアイランド現象に加え、湿度の高い日本の都市部の夏の方が1.5倍くらい体感的に暑いと思う。なにより、シーズン中ほどウジャウジャと人がいないのが嬉しい。夏の方がエジプトに行くならねらい目かもしれない。

一日に定員300人までしか入ることの出来ないクフ王のピラミッド内部。冬のシーズン中には早朝7時から並んで入場チケットを買わなければならないらしいけど、今日は午後2時半でも余裕で入ることが出来た。というか、中に入る人は少ないのか、ひと気がない。ひとりで薄暗いピラミッドの中心部に向かって延びている大回廊を上がっていく。
ピラミッド内部の道大回廊の先にある"石落とし装置"の下を腰を屈めてくぐると、真っ暗な"王の玄室"にたどり着く。中には誰もいなくて一人ぼっちだったので、雰囲気出すぎで本当に怖い。
ピラミッド内部でひとりぼっちそれにしても、ピラミッドの外壁に使われている石とは比べ物にならないほど、玄室には頑丈な石が使われている。こんな硬度の高い石なのに、剃刀の刃も通らないほど、綺麗に切り出す技術が信じられない。玄室の上には"重力軽減の間"があるなど、まさに古代エジプト人の叡智がつまっている。

太陽の船三大ピラミッドをあらゆる角度から見た。発見されたクフ王の"太陽の船"も見た。残るはスフィンクスだ。
スフィンクス
スフィンクスを後ろから見ると、すごくカッコ悪い。トリビアの泉で「スフィンクスの見つめる先はケンタッキー」で有名になったケンタッキーとピザハットありました。看板が赤いので遠くからでもよく目立つ。スフィンクスの目線情報は正しいのか?確認してみました。スフィンクスの正面から真っ直ぐに歩いて目線をたどっていくと、、、ちょっと違った。正確には隣にある"SPHINX GUEST HOUSE"を見ている。一応、ケンタッキーの3階からスフィンクスの方をみると、奴はこっちを見てない。まあどうでもいい話だけど、確認を頼まれたので、写真とともに報告しておきます。スフィンクスが見つめる先は

それにしてもエジプト人はフレンドリーだけど金に汚いというか平気で嘘を付く。世界でもトップレベルの性悪さだと思う。向こうから話しかけてくるのは9割以上が悪人、というのは他の国でも珍しくない。しかし、びっくりしたのはこちらから話かけた場合でも嘘をつかれた事。
今日はバス停でピラミッド行きのバスを探している時、暇そうにしているおっさんに聞いたら『ピラミッド行きのバスはもう無い』とタクシーを勧められた。そんなはずは絶対無いだろう。エジプト第一の観光地であるピラミッド行きのバスが無くなるわけがない。絶対にあると確信をもって自分で探すと、5分で見つけた。諸事こんな感じで、まったく人を信じられなくなっている。というか信じたら負けみたいな。ヨルダンあたりから自分の心が荒んできているような気がする。シリアは目が覚めるぐらいの親切な人ばかりだったのに、何故同じアラブでこうも違うのか。

帰国に向けて(2006/09/16-17)

諸事情で、10月1日までに日本に帰ることになった。そうなるとノンビリもしていられない。すぐに航空会社オフィスに行き、航空券の手配をしなければならない。
カイロ市内にあるカタール航空オフィスに行く。カタール航空は創業まだ10年にも満たない。それゆえ他の航空会社よりも販売価格を落とし、現在も急成長をしている会社だ。おそらく何処の航空会社よりも安く、カイロ発→関空まで8万前後くらいだろうと予想していた。もし8万以下なら即決で買ってしまおうと思っていた。しかし実際にオフィスで聞いてみると、諸税込みで2941ポンド(58,820円)と予想を大幅に下回る値段でビックリ。9月29日まで、すでに満席状態で予約できなくて、ギリギリ席が空いていた30日をとってもらった。これならなんとか10月1日に日本に帰国できる。いったんカタールのドーハで乗り継ぐので、直行便ではないがこの安さには代えられない。これはリーがイスタンブールから帰国したウズベキスタン航空よりも安い。しかもカタールのドーハでの乗り換え時間も3時間と結構スムーズだ。あとは、帰国に向けてしっかりと予定を組み、エジプトを満喫しよう。

今日はカイロの南約900km、北回帰線ちかくにあるアスワンに夜行列車で行く。もう帰国便が決まってしまったからには、今までのようにダラダラは出来ない。計画的に動いて、見ておきたい所に行かないと後で必ず後悔するだろう。夜行列車は学割が効いて64ポンド(1,280円)だった。一等列車なのに安い。

シタデル(サラディンが建設した城塞)列車の出発時刻の夜10時まで、カイロでまだ見てないイスラム地区を適当に見て回った。本当に地図も見ないで適当にウロウロしていたら、最大の名所であるシタデル(サラディンが建設した城塞)に着いた時にはもう閉門していて、外観だけみて終わった。また、適当にぶらつきながらカイロ中心街まで戻っていった。しかし、イスラム地区はカイロ中心街とは全くの別世界だ。住居は古くモスクが無数にあり、細い路地はまるで迷路のようだった。

カイロの路地裏夜行列車の出発時刻ちかくになったので、ラムセス駅に向かう。駅のプラットフォームにある行き先掲示板は全く機能しておらず、どのプラットフォーム、どの列車に乗ればいいのか全然わからない。例の如く何人もの人に聞きまくって、なんとか見つけることが出来た。

1等列車はコンパートメント式で、エアコンもついていて快適。またコンパートメントは広く、向かい合わせの両者が足を伸ばしても届かないくらいだ。コンパートメントで一緒になったのは、38歳のアメリカ・ミシガン州の"ケヴィン Kevin"と、スーダン人の女性ナガーツ、ヌビア人2人、エジプト人1人だった。皆お喋りで、結局午前4時頃まで、僕の日本語とアメリカ人の英語、他はアラビア語を教えあうという、ちょっとした外国語講座の教室みたいになっていた。
列車はカイロからアスワンまで、長い長いナイル川に沿って走っている。窓の横に目をやると、常にナイル川が見える。ナイル川はさすがに世界一の長さと驚く。しかし、川幅が予想外に狭くてビックリした。川幅10mくらいのドブ川みたいなところもあったりする。目が覚めると、もうアスワンに着こうとしていた。アスワン

ヌビア人女性ナガーツの荷物が手一杯だったので、アメリカ人のケヴィンと共に荷物を持つのを手伝ってあげていると、同じ列車に乗っていて、違うコンパートメントだったスロヴェニア人カップルから『アブシンベル神殿にはどうやって行くか知ってる?』と聞かれた。アスワンへはアブシンベル神殿に行くための中継地点みたいな場所だ。当然僕もアブシンベル神殿に行きたい。しかしアブシンベル神殿までどのようにして行くか、詳しい情報はみんなよく判っていなかったので、4人で一緒にツーリストインフォメーションで聞くことにした。
インフォメーションによれば、各ホテルにて申し込めるアブシンベル神殿までいくツアーバスが毎日出ているらしい。だいたいの相場も聞いておいた。驚くべきことに、出発時間が鬼のように早く午前3時30分になる。早い理由を聞くと、砂漠が暑くなる昼間を避けるためらしい。

そのあと4人で、カフェや食事に行く。スロヴェニア人たちはすごく英語が達者だ。僕は彼らの会話の半分も理解できない。判らない単語が会話に出てきたら、それはどういう意味?と聞いたりして会話についていけない。それでも彼らは親切で、いちいち判るまで説明してくれる。それにしても、こうやってアメリカ人とヨーロッパ系と並べて比べてみると全然違う。
スロヴェニア人カップルとケヴィンアメリカ人は凄いオーバーアクションだ。僕の名前は"ダイスケ"なのに、何度修正させても発音が難しいのだろうか、彼らが僕の名前をいうと"だいすき"になってしまう。『"だいすき"は日本語で I love youという意味だから、すごくおかしい』というと、椅子からズッコケてた。それから、僕が8ヶ月も旅していること、普段聞きなれない国々を回ったこと、残念ながらスロヴェニアはバスで通過しただけだということなど、今までの旅の出来事を言うとものすごく驚いていた。反応を見ているだけで楽しい。それにしても、もっと英語を勉強しておけばよかった。そしたらもっともっと楽しい会話が出来ただろうに。

カフェ代はケヴィンがおごってくれた。何度も払うって言っても、『僕は働いているけど、ダイスキは学生でお金無いでしょ?』と受け取ってくれなかった。本当は学生じゃないんだけど、ここで本当の事いってもややこしくなるので、その厚意に甘えることにした。それから、早朝出発のアブシンベル神殿のツアーは、この四人で行くことになった。

アブシンベル神殿(2006/09/18)

昨日、一緒にアブシンベル神殿のツアーに行くことになったスロヴェニア人から、頼んでもいないのにわざわざモーニングコールをかけてきてくれた。ツアーの出発時間は早朝3時半。まだ朝とは言えない3時に起きた。
ホテルでは朝食をビニールに包んで持たせてくれた。アスワンからアブシンベル神殿までは、3時間以上かかる。無理やり起きたし、バスの中では寝るしかない。
寝ていると、アメリカ人のケヴィンが僕を起こした。『あまりにも景色が綺麗だから起こした』というので、指差す方を見ると砂漠にちょうど朝日が昇ってきていた。ケヴィンの言うとおり、すごく綺麗だった。思えば、夕日はよくみているけど、朝日を拝むということはなかなかない。そもそもそんな時間に僕が起きられるわけがない。アブシンベルの朝日

アブシンベル神殿に着いた。ツアーと行っても、バスで各所を回るだけなので、入場料などは自分で払い、見学して、集合時間までにバスに戻ってくるというスタイルだ。
アブシンベル神殿はアスワンハイダムを建設する時に、一躍有名になった遺跡だ。アスワンハイダムを建設すると、その周囲の遺跡が水没の危機にさらされてしまう。そこでユネスコが遺跡救済のために国際的なキャンペーンを行った。これにより募金だけでなく、どのような方法で救済するかなどの意見も広く集められ、結果的に1964年から1968年にかけて神殿は1,036個ものブロックに切断する方法で、もとの位置よりも60m上にそっくりそのまま移動することに成功した。この遺跡の大移転計画により、貴重な文化遺産や自然遺産を保護しようという機運が高まり、それが1972年の世界遺産条約採択として実を結ぶことになる。まさに現在のユネスコ世界遺産のきっかけとなった遺跡だ。アブシンベル神殿

アブシンベル神殿をよくみると、たしかに切断面があるのがわかる。20mもの巨像が4体という外観に圧倒されるが、神殿内部はもっとすごい。あらゆる壁や柱にヒエログリフやレリーフが彫りこまれている。砂に埋もれていた神殿を探検家が発見したのが1813年、そのため歴史上の人為的な破壊を免れたため保存状態はよい。酷いのは、その発見された1800年代の落書きが沢山あること。遺跡に落書きする奴の精神構造が理解できない。アブシンベル神殿の反対側
そのあと、アスワンハイダムを見学したのち、ダムに浮かぶアギルキア島にて同じく水没の危機から移転して免れたイシス(フィラエ)神殿を見て、アスワンの町に戻った。イシス(フィラエ)神殿

ヒエログリフやレリーフツアーが終わった後、スロヴェニア人のカップルはホテルで休憩するからといって別れた。しかし、ツアーの出発が早かっただけあって、まだまだ日は高く時間に余裕がある。ケヴィンと話し合った結果、ナイル川でフルーカに乗ろうということになった。
アスワンの川沿いの道を歩いていると、何人ものフルーカの客引きから声を掛けられる。僕らはそのなかで一番安い値段を提示してきた客引きから、さらに値下げさせ二人で1時間25ポンド(500円)で交渉成立した。乗客は僕らだけ。フルーカは三角帆のヨットで、完全に風まかせ。風は吹いているかわからないほどなので、ゆっくりと進んでいく。ほかに客がいないし、面白そうなので操縦させてもらった。向かい風の場合は切り上げるために、ナイル川をジグザグに進むのだ。夕日とフルーカ

フルーカを降りたあと、ケヴィンは明日朝一の列車に乗ってルクソールに向かうので、ここでお別れだ。最後までいい人だった。僕のヘタクソな英語を一生懸命聞いてくれたし、向こうから話すときは、判りやすく説明するように喋ってくれた。ネイティブの人と2日間話しただけで、自分でも英語が聞き取りやすくなった気がする。少し英語力が上達したのかもしれない。ありがとうケヴィン、アメリカ人が好きになった。最後は『Nice to meet you! See you Luxor』とお互いに言って別れた。僕は一日後れでルクソールに行くので、もしかしたらまた会えるかもしれない。しかし"Nice to meet you"を日本語にすると『あなたに会えてよかった』これって凄い恥ずかしくてなかなか言えない言葉だと思う。

ルクソールへ(2006/09/20)

カイロ方面へ戻るように、アスワンから北へ約200kmに位置する"ルクソール Luxor"へ移動する。ルクソールはかつてテーベと呼ばれ、中王国、新王国時代の首都として栄えたところ。それゆえ、王家の谷にはじまりハトシェプスト女王葬祭殿、カルナック神殿やルクソール神殿など、とても一日だけでは見て回れないほど、当時の巨大建築遺跡がたくさん残っている。ここが僕のエジプト観光最後の大きな見所、この長期旅行を締めくくるに相応しい場所だ。なので、じっくりと見て回るため、ルクソールに4泊しようと思う。

朝8時発のルクソール行きの列車に乗る。この前カイロからアスワンまでの1等列車が快適だったので、今回も1等列車にした。しかし、今回はコンパートメントではなく3列シートだった。一車両に4人くらいしか乗っていない。それに加えて、狂ったように冷房を効かせている。体が冷え切ってきたので、バックパックを開いて、長袖を出して着た。それでも寒い。10℃下回ってるような気がする。今は冬か?と勘違いしそうだ。検札にきた車掌を見ると、なんと長袖を二枚も羽織ってるではないか。アホみたいに冷やせばいいってもんちゃうやろー!これならエアコンが付いていない2等の方が快適だわ。本当に風邪引きそうになった。

ルクソールに到着して、列車から降りると猛烈に暑い。当然すぐに着ていた長袖を脱ぐ。あまりの温度差に気持ち悪くなった。ルクソールは心なしか、アスワンよりも暑いような気がする。エアコンが無いと寝られなさそうだ。迷うことなくエアコン付きの宿で泊まることにした。

しばらく宿で休んだあと、歩いていけるカルナック神殿に向かう。町の中心街から片道3km、たいしたことない。と思っていたら、日差しがキツイ。まあそれはいいとして、ルクソールの町は砂が常に巻き上がり、ハードコンタクトの目を容赦なく攻撃してくる。ほとんど、目を閉じているかのような薄目で涙を流しながら、カルナック神殿まで歩いていった。カルナック神殿の入り口

カルナック神殿にあるオベリスクカルナック神殿の像カルナック神殿の円柱カルナック神殿のヒエログリフ

カルナック神殿は、ものすごく規模が大きく、まさに圧巻。今でさえ、ここまで崩れてしまってもその存在感の大きさに驚くのに、当時は本当に壮観な眺めだったことだろう。

ルクソール西岸(2006/09/21)

ルクソール西岸には王家の谷やハトシェプスト葬祭殿など見所が集中している。初めは自転車で回ろうかと思っていたが、思った以上の日差しの強さと砂塵が舞っているので正直厳しい。なので、ツアーで回ることにした。

ツアーは、アメリカ人のおじいちゃん,スイス人親子,イギリス人の学生と僕を含めて5人グループだった。それに英語を喋るガイドがついている。妙な発音のせいなのか僕には彼が何をいっているのか、ほとんど解らない。しかしスイス人曰く、ガイドの話は面白くわかりやすいらしい。スイスではドイツ語、フランス語、英語、イタリア語の4ヶ国語くらい喋られるのも珍しくないらしい。そう当たり前のように言われると、英語すら満足に出来ない僕がアホみたいやんけ。

王家の谷
初めにいきなりメインである王家の谷に行った。王家の谷は新王国時代のファラオの墓が60以上も確認されている所。盗掘を防ぐためにルクソール西岸の奥深い谷に死後の安住の地をもとめたのが王家の谷だが、ほとんどの墓は略奪の憂き目にあっている。その中で一つだけ、盗掘をまぬがれていたのがツタンカーメンの墓。黄金のマスクもここから発掘された。エジプト考古学博物館の2階の半分を占めるだけの副葬品には驚くばかりだが、実はツタンカーメンは18歳で早世したため権力は弱く、墓が質素だったために盗掘をまぬがれたらしい。こうなると、トトメス3世やラムセス3世など強大な王の墓には、想像もできないほどの財宝が埋もれていたに違いない。
王家の谷のレリーフ墓の内部には色彩のついたレリーフが壁一面にあり、ラメセス6世などの墓の天井部には当時のエジプトの宇宙観のレリーフがあったり興味深い。

ハトシェプスト葬祭殿次はハトシェプスト葬祭殿に行った。ちょうど葬祭殿の裏側には王家の谷があり、第3テラスからはルクソール東岸が見渡せる。内部にあるレリーフは一見の価値があり、プント(ソマリア)と交易していたと思われるレリーフもみることが出来る。その後、王妃の谷やメムノンの巨像などをみてツアーは終了した。メムノンの巨像

ラマダーン(2006/09/24)

今日は、イスラム圏に来てから恐れていた事が始まる日。年に一回あるラマダーン(断食月)がついに始まった。
ラマダーンとは、ムスリム五行のひとつで断食が行われる月だ。約1ヶ月の間、日の出から日没まで一切の食事、水分補給さえも断つ。もちろん僕のようなムスリムじゃない旅行者には関係ない事だ。しかし、だからといって皆が断食している目の前で、堂々と飲食をするのは気が引ける。人が見てないところで、こっそりと水分補給したり、食事も旅行者のために日中も開いている店を探すのに一苦労など、とにかく面倒だ。さらに、ムスリム達は日中食べてない分、夜に沢山食べて、深夜遅くまでお祭りのように喋り、日の出前にもう一度食べて、仮眠をとってから仕事に行く。このような生活パターンに変わるため、昼間の仕事能率がラマダーン中は極端に下がってしまう。普段から、真面目に仕事しないエジプト人が、さらに昼間の仕事中は寝てしまうのだ。完全に昼夜が逆転している。現にこの月は一ヶ月丸まる休みにする店も多い。とにかく大変なのだ。旅行者にとっては迷惑このうえない。エジプトのよくわからないソース

そういう日だが、帰国まであまり日が無いので朝一の列車でカイロへ戻る。しかしルクソール駅のホームで、列車を待てども待てどもやって来ない。ラマダーンでやる気がないのだろうか。予定の時刻よりも30分以上過ぎても来ない。少し不安になってきたので、そこらへんにいたオッサンに聞いてみると、なんと今日でサマータイムが終わって、通常の時間に切り替わったらしい。ラマダーン開始と同時に切り替えたみたいだ。1時間も早く駅のホームに来て、列車を待っていた僕がアホでした。

時計を1時間戻した。意外にも定刻どおり列車は到着した。また前回のように、列車で冷房が効きすぎてる状態だろうと予測して、あらかじめ上着と体にかけるタオルを持って乗り込んだ。そしたら今度はどうだ。エアコンが壊れていてムチャクチャ暑いではないか。寒いのもイヤだけど、暑いのはもっとイヤだ。列車はガラ空き状態だったので、車掌にことわってエアコンが作動している車両の座席にかえてもらった。こちらは前回と同じく極寒地獄。しかし、上着を着てタオルを体にかけると丁度よい感じになったので、なにも問題ない。

カイロ到着前に日没となった。車両内にいた人達が一斉に、持ってきていた果物を食べたり水を飲みだした。僕も今まで食べたことがない味の、謎の果物を分けてもらった。
もし、ラマダーン中にムスリムの人が我慢できなくなって、食事してしまったらどうなるんだろうか。また一つ、宗教というものが解らなくなった。

アレキサンドリア(2006/09/25)

カイロに戻っても帰国便の30日まで、まだ5日間もある。昨日ルクソールからカイロにもどる列車の中で考えた結果、アレキサンドリアに行くことにした。地中海に面した港町アレキサンドリアは、紀元前4世紀にアレクサンドロス大王によって建設され、女王クレオパトラがいた街としても有名だ。

今日、目覚めたのは昼の11時だった。昨日は一日中列車に乗っていただけだけど、体は疲れていたらしい。でも、アレキサンドリアはカイロから北へ約200kmほど、列車で2時間程度の距離だし、まだまだ間に合う。
ラムセス駅にてアレキサンドリア行きの切符を購入。14時発の便だった。出発時刻まで暇なので、食事を取ることにした。カイロでは、敬虔なムスリムの割合が他の都市と比べて少なく、またコプト教信者などもいる。なので、ラマダーン中は休業している飲食店も多いが、だからといって食事場所が全くないわけではなかった。

列車に乗り、アレキサンドリアに向かう。アレキサンドリアに近づくにつれて、緑が多い景色に変わってくる。そういえば、アレキサンドリアは地中海性気候らしい。列車から降りると、より一層気候の違いがわかった。砂漠気候のような強烈な日差しではなく、体感温度もそれほど暑くない。それに空には久しぶりにみた雲が浮かんでいる。たった200kmほどで、こんなに気候がガラっと変わってしまうのが面白い。アレクサンドリアの夕日

宿は海沿いにあるホテルで、海の見える部屋にしてもらった。アレキサンドリアといえば、シーフードが美味しいらしい。3泊する予定なので、海を見ながら少し贅沢にのんびり過ごそう。アレクサンドリアの街並

旅の最終段階(2006/09/28)

アレクサンドリアでの観光は、プトレマイオス朝時代に作られた古代図書館の威厳を現代によみがえらせたような、近代的なアレクサンドリア図書館やカーイトゥベーイの要塞などを見て回った。アレクサンドリア図書館
カーイトゥベーイの要塞はファロスの灯台の跡に建てられたもの。ファロスの灯台というのはアレクサンドロス大王の案に基づくと言われ、なんと高さ120m(約40階建てのビルに相当)で56km先の沖合いからも灯台の光が見えたという。紀元前3世紀に建てられたといわれる灯台。だが、残念ながら14世紀の大地震で崩壊してしまった。その巨大さから、ギザの三大ピラミッドと同じく世界七不思議のひとつに数えられている。いまでも海底には崩れた灯台の遺跡が沈んでいるらしい。なんともロマンチックな話であろうか。

実際にカーイトゥベーイの要塞に行ってみると、結構土台が大きい。あの地中海に突き出した位置に、土台のシッカリした高さ120mの石で出来た灯台があったら、そうとうなインパクトだ。初めてアレクサンドリアに入港してきた船は肝を潰したに違いない。現代まで残っていれば、ピラミッドに匹敵する観光名所になっていただろう。アレクサンドリアのカーイトゥベーイの要塞

というわけで、アレクサンドリアでは古代のロマンに思いをはせて観光したり、無意味に浜辺を歩いたり、地中海に沈む夕日を見つめたり、ラマダーン(断食月)の日暮れを合図する大砲の音と振動にビックリしたり、お腹が空けばイカや蟹・海老・白身の魚など食べて、今までの旅を思い出してひとり笑ったりしていた。

そして再びカイロに戻った。ここは相変わらず暑い。
考えたら、今日はもう帰国二日前だ。何もお土産を買っていないことに気が付いた。おみやげバザールの"ハーン・ハリーリ"に行ってみる。
バザールのハーン・ハリーリこういう旅行者相手のところはボッてくるのが定番だが、ここも例外ではなかった。というか、頭の悪いボリ方がすごい。エジプトティーの茶葉100gで600円とか日本で買った方が安いやろ?という値段を平気で提示してくるので何件かの店で喧嘩した。そして怒りながら店を出て行くと、たぶん旅行者値の最安らしい値段(最初に提示した値段の30分の1以下)を提示してくる。でも気分悪いので買わない。そんなことを繰り返している内になんとなくお土産の物価を把握してきた。そんなこんなで、今まで培ってきた交渉術を駆使して主に食料品のお土産を購入した。それでも、現地の人と同じ値段では売ってくれないみたいで、基本的にはボラれてることには変わりない。カイロ市街

カイロのイスラム建築内部中心街に向かって帰って道を歩いていると、面白い光景が見れた。まだラマダーンの日暮れの合図が無い状態でレストランに人が沢山いた。各テーブルの上には料理がすでに出されており、みんな日暮れの合図を待っている。こう言っては失礼だが、まるで犬が食事を目の前にして『待て』をされてるみたいだ。集団で待ての状態なので異様な雰囲気がある。そして、道行く車は早く家に帰りたい為に、ものすごいスピードで走っていて危ない。今日は3ヶ所で事故を見た。家に帰るためのタクシーの奪い合いで喧嘩しているのも見た。ラマダーンはまったく理解不能な行事だ。

しばらく歩くと、軍人さん達に声かけられた。もう日暮れになっていたので、軍人さんは弁当のコシャリなどを食べていた。僕の持っていた水を飲ませてくれというので、残り少なくなったペットボトルごとあげる。その代わりにとビニール袋に直接入ったジュース?をくれた。見た目はコーヒーそっくりで真っ黒だが、飲んでみると何かの果汁だ。飲みやすさといい、後味すっきりといい、今まで味わったことがない美味しさ。これも食え、あれも食えと色々と分けてもらった。

カイロのシタデル今日の事で一つわかった事がある。以前日記でエジプト人が性悪だと書いたけど、ごめんなさい厳密には違った。わかった結論としてエジプト人ほどフレンドリーな人種はなかなかいない。しかし、旅行者と関わり金が絡む仕事をしている人は、悪知恵がついて汚くなったようだ。旅行者に関わりがない一般の仕事をもった人、たとえば工事現場のおっちゃんとか、今の軍人さんなどは皆良い人だった。お茶奢ってもらった事もあった。早々に物価を把握して、交渉の仕方やアラビア語を少しでも覚えて、彼らとの接し方が判ってきたら、エジプトがもっと楽しい国になる。僕はやっと今頃わかってきた。