「ウズベキスタン共和国」シルクロードを放浪した2006年の旅行記

「ウズベキスタン共和国」シルクロードを放浪した2006年の旅行記の画像

ウズベキスタン国境越え(2006/05/25-26)

ウズベキスタンのビザを取るためだけに来たカザフスタンから、やっとオサラバすることが出来る。中央アジアのメイン観光箇所であるウズベキスタンに向かうため、長距離バスターミナルへ。

市バスでバスターミナルに着くと、客引きがいっぱい。「シムケント・タシケント・タラズ!」など行く方面ごとの地名を連呼している。僕らがタシケントに行くとわかると、5,6人の客引きが一斉に寄ってきた。ここの客引きは今までのどこのアジアの国よりも強引だ。「うちのバスが安くて快適だよ」と言いながら、ものすごい力で強引に手を引っ張って連れて行こうとする。どの客引きも同様なので、左右から両手を引っ張られて酷い状況だ。「待て!落ち着け!」と日本語で叫んでから、「とりあえず順番に料金を書いて」と、紙にタシケントまでいくらで行くのか、競い合わせてみると、500~1200テンゲと様々な料金が出てきた。しかし、問題は何時出発するのかということだ。ビザの有効期限に余裕の無い僕らには最重要事項。そのいう事から、800テンゲ(750円)で一番早く出発するバスを選んだ。

バスは夕方6時に出発、何度かのトイレ休憩をして、朝8時に国境に到着した。ウズベキスタンのタシケントまでは、バスが国境を通れないため、ここで降ろされる。歩いて国境越えだ。
国境前に両替所があったので、ウズベキスタンの通貨スムに両替しておくことにした。両替所はいくつかあったが、何も考えずに呼び込みしていたオヤジの所で両替してしまったことが問題となってしまった。ウズベキスタン通貨のスムは、最高額の紙幣が1,000スム($1ほどの価値)までしかない。なので$50を両替しただけで、ものすごい量の札束で返ってくる。両替所のオヤジはこの事を利用して、僕らを謀ろうとした。初め、200スム札を25枚づつの札束で全額渡してきた。数えてみると、全然足りない。オヤジに「おかしいよ」と言うと、持っている計算機を使って計算して見せてくる。みると、200×25が【10,000】と表示されている。一瞬自分の頭がおかしくなったかと思った。どう考えても、答えは5,000だ。「ちょっと計算機かせ」と自分で計算機を使うとおもしろいことに、全部の計算が2倍の数字が出てくる。なんだこれは(笑)大量の札束で数えるのが難しくなることを利用した、新手の計算機詐欺か。
自分の手持ちの計算機を出して、目の前で計算して見せてやると観念して、1000スム札で両替してくれた。レートは$1=1030スムだった。レートがさっぱり判らない僕らは、まあこんなもんだろうとOKした。それにしても、両替すると50枚以上の札束で財布の中に入りきらないようになってしまった。なんちゅう国だ。信じられない。

これで50ドルの価値しかないウズベキスタンのスム札束両替してから、これだけ札束あるけど、よく考えたら$50の価値しかない。どうも心細いので、もう$50も両替しておこうと思い、さっき両替したところから離れた違う両替所で両替する。ここの両替所は地元の人が沢山いた。さっきの所とは雰囲気が違う。ここでレートを聞くと、なんと$1=1220スムだった。やっぱりさっきの両替所では騙されてた。ムカつく800円くらい損した。インターネットの情報ではレートは$1=1000前後と書いてあったので、そんなもんなのかと思っていたけど、最新情報を調べないから、こういう目に遭う。最近ドルが下がり傾向にあったので、深く考えず両替してしまったことが悪かった。詐欺ろうとしている時点でやめておくべきだったかもしれない。

徒歩での国境越えは、またカンボジアの国境を彷彿させる混みぐあいだ。ただパスポートを確認するだけの、パスポートコントロールですでに人が団子状態になっている。そこをなんとか通過して、今度は出国審査。ここが鬼のように遅い。イルケシュタムの中国側の出国イミグレーション並の遅さだ。30分ほど待っても30cmしか前に進まない状態だった。先頭は遥か向こう。
そういう状況の中、一人の初老のおっちゃんがロシア語で話しかけてきた。僕は「日本人なんでロシア語わかんないよ」って英語で言うと、おっちゃん英語も少し話せたらしく、「おお、日本人か。日本のどこ?」「大阪だよ」話していると、エディガルという名前の、このおっちゃんはなにやらタクシーの客引きらしい。しかし、エディガルはこのイミグレーションで顔が利くらしく、「俺がサポートしてやるから、着いて来い」という。強引に前に行き、係官になにやら話すと、あっさりと出国することが出来た。地道に待っている群衆に恨めしそうな目で見られながら、今度はウズベキスタンのパスポートコントロールを通過。その後は、税関申告。
ウズベキスタンでは、税関がかなり厳しいらしく、申告した金額と所持金が合ってないと最悪の場合、没収もあり得る。僕の場合はノートパソコンやカメラも所持しているので、かなり正確に税関申告書に記入しなければならない。しかし、税関申告書自体が、英語表記のものが無く、すべてロシア語のキリル文字で書かれていて、なにが書かれているのかさっぱりだ。ここでもエディガルが助けてくれた。一つずつ、「ここは所持金額、ここは個数」など説明してくれたので、なんとか書き上げることが出来た。税関では、係官に難癖つけられるんだろうと思ったが、またまたエディガルが口添えしてくれたおかげで、素通りだった。何者なんだ、このおっちゃんは・・・。

そうこうして、あっという間にウズベキスタンに入国できてしまった。あのまま、普通に並んでいたら、昼過ぎになっていたかもしれない。入国するとエディガル「ようこそ、ウズベキスタン。マイマシーンでタシケントへ行くよ」とやっぱり商売モードになった。しかしサポートしてくれた引け目から、ちょっと断りづらい。「ストーリカ・ストーイト?(いくら?)」と値段を聞いてみると、「$30」とちょっと高すぎな値段を提示してきた。ここからは乗り合いタクシーで500スム(50円くらい)で街の中心までいける。「おっさん、高すぎ!」と値段交渉して、早く国境を抜けられたことも考慮して、時間を金で買ったと思い、結局$15でホテルまで行ってもらうことになった。
おっちゃんもそんなに悪い奴ではないので、観光案内をしながら、ちょっと余分目に市内を回ってくれた。気のいいおっちゃんだ。ホテルに着くと、バスでほとんど眠れなかったのと疲れで、まだ昼前だというのに、倒れこむように眠りについた。

行く先は気の向くままに(2006/05/27)

今日は、サマルカンドへ行くための鉄道チケットを購入しにいく。それと、ウズベキスタンからの次の目的地をどうするか、まだハッキリとは決めていない。かといって、トルクメニスタンやアゼルバイジャンに行くのには、ビザの取得が難しく、それに掛かる費用と日数も馬鹿にならないだろう。あまり魅力のある国でもないし、どうせならトルコにあっさりと飛行機で飛び越して行ってしまおうと思う。

まずはサマルカンド行きのチケットを買いに行く。地下鉄に乗って、タシケント駅へ。地下鉄は距離に関係なく一律160スム(15円)でかなり安い。ちょっとカビ臭く、明かりの薄暗いのメトロだ。利用客もそれほど多くなく、乗り換えの時も長い地下道を歩くと、カツンカツンと足音が響き、なんともいえない雰囲気がある。地下鉄を出ると目の前がタシケント駅だ。明日出発のサマルカンド行きの切符を購入するのに、窓口をたらい回しにさせられて、ようやく英語の通じるおばちゃんの所で買うことが出来た。2等車両の切符で6550スム(600円)だった。サマルカンドまで5時間程の距離なのに安い。ウズベキスタンは格段に交通費が安くて助かる。

今度は、ウズベキスタンから次の目的地を決めるために航空会社へ行く。まずは、トルコ航空へ。トルコ航空のオフィスでイスタンブールまでの料金を聞くと、タシケント→イスタンブールが$415だ。思っていたより高い。オフィスの気の良いお姉さんによると、「あなたが、もし24歳以下だったら、これの半額近い値段だったんだけど」とのことらしい。27歳になってしまった僕では安くしてくれなかった。

次は、ウズベキスタン航空オフィスへ行ってみる。こちらでは、タシケント→イスタンブールが通常$434だが、なんとウズベキスタン航空では、割引適用年齢が28歳以下になっていて、実際の料金は$319だった。リーと「安いなぁ~、トルコ決まりか?」なんて話していて、もうトルコに飛んで行くことが決定みたいな雰囲気になってきた。しかし確認の為、他の航路も聞いてみて決めることにした。「エジプトのカイロへは飛んでないの?」と聞くと、「ニェット(否定語)」
フライトスケジュールを見てみると、バルト三国(エストニア・ラトヴィア・リトアニア)の一つラトヴィアのRIGAに飛んでいる。インターネットでの情報で、ウズベキスタン航空が直行便でタシケントからラトヴィアのRIGAに飛んでいるのはすでに知っていた。リーが、中世ヨーロッパの町並みが良い感じで残っていると言われているバルト三国に行ってみたいと前々から言っていたので、試しにRIGAまでのフライト料金も聞いてみた。すると、$359で飛ぶという。もっと高いと思っていただけに、これは意外だった。横にいるリーに目をやると、「ラトヴィア行こうぜ!決まり!」と言わんばかりに目を輝かせている。これは言っても聞かん顔だ。僕も、バルト三国でもいいかなと思っていたので、ちょっと頭の中で今後のルートをシミュレートしてみる。
(トルコに飛んで、シリア・ヨルダン・エジプトに行ったあと、また飛行機を使いギリシャに飛んで、東ヨーロッパを北上して行くか・・・。もしくは、いきなりバルト三国へ飛んでから、東ヨーロッパを南下していき、トルコからエジプトまでのルートで行くか。) 後者の方が飛行機を使わない分、安くてルートもスマートだ。少し悩んだ挙句、出した答えは「よし!RIGAへ行こう!」
6/11出発のRIGA行き航空チケットを購入。2週間でウズベキスタンを周遊してまたタシケントに戻ってくる。それにしても、チケット買ってしまってから言うのもなんだが、またしても旧社会主義国に行くことになった。行った国を並べてみると、「ロシアとか、社会主義好きなの?」と思われても仕方が無いような所ばかり行っている気がする。決してそういう訳ではない。

サマルカンド(2006/05/28)

シルクロードの中心都市、青の都"サマルカンド"へ行く。サマルカンド、そこは何十年と僕が魅了されてきた名前の街である。『チンギス・ハーンが破壊し、ティムールが建設した』といわれるように、オアシス都市の興亡の歴史に深い関係を持つ街だ。

朝7時発の鉄道なので、5時に起きて地下鉄に乗りタシケント駅へ行く。昨日買っておいた鉄道の切符は、近年運行されるようになった新シルクロード特急レギスタン号だ。タシケントからサマルカンドまで4時間で結んでいる。内装は綺麗でコンパートメント方式、エアコンも完備されていて快適だ。乗車中はチャイ(お茶)とサンドイッチが出る。車窓も中央アジアらしい風景を見ることが出来た。しかし昨夜、寝つけられなかったせいで、ウトウトと眠りこけてしまい、すぐにサマルカンドに着いてしまった。あまり鉄道の旅を楽しむことは出来なかった。

客引きのタクシーは無視して、路線タクシー(200Som/22円)でサマルカンドの中心地である、レギスタン公園へ。
サマルカンドのレギスタン公園レギスタン公園のメドレセのサムネイル画像レギスタン公園に着いて、驚愕した。まさに青の都と言われるのも納得いく。写真で想像していた以上にすごい。こんなに良い意味で予想を裏切ってくれたのは、カンボジアのアンコールワット以来だ。澄みわたる青空に負けじと、青磁のように深い色合いの青いドームが映える。また建物が思っていた以上に大きく圧倒される。ついに来た。サマルカンド。

サマルカンドの街自体は思っていたよりも規模が小さく、まるで田舎町のようだ。歩いて各文化建築物を見てまわることも可能だろう。それにしても、暑い。直射日光がジリジリと肌を焼いている。しかしこれもオアシス都市らしい天候で、気分は最高だ。

目星を付けていた、Bahodir B&Bへ向かう。ここは日本人旅行者のたまり場になっている宿だ。ホテルの主人は気さくで親切。部屋はエアコン,朝・夕食付きでツイン$10だった。非常に安くてお得。
宿の中庭で、サービスのチャイで一服していると、ちょうどロシアからバルト三国・中欧を抜けてトルコ・エジプトまで行ってきた日本人がいた。いまから僕らが向かうルートと偶然にも合致しているので、色々と情報を聞いた。バルト三国はどこのヨーロッパの都市よりも、中世の雰囲気が残っていて素晴らしい所だそうだ。期待は高まるばかりだ。

サマルカンド観光(2006/05/29)

ここらの気候は、午後になると雲が出てくる。午前中は雲がほとんどない真っ青な晴天になることが多い。そういう事を踏まえて早起きする。はずだったのだが、目覚ましをセットし忘れていたのと、昨日ほとんど寝ていなかった理由から、起きたのは10時過ぎだった。

いつも通りの天候に違わず、残念ながら少し雲が出始めている状態になっている。それでも、外に出ると日差しは強く、汗が瞬間的に噴出す。まずは、町の中心的存在であるレギスタン広場に向かう。そこは、3つのメドレセが向かい合わせに集まった所。メドレセとは神学校の意。ここはまさに、よく写真に出てくるサマルカンドの風景だ。1420年~1660年に建てられたいわれるメドレセたちは何度かの修復を経て、現在なお当時のままの姿で目の前に存在している。それぞれのメドレセの外壁にあるタイル模様は、まるでコンピュータグラフィックスのドット絵のようで面白い。それになによりも、そのメドレセの高さ35mの大きさにビックリした。その存在感と迫力はどうだ。現代の高層ビル建築物などに無い、威厳が感じられ、巨大な芸術品とも言える。

メドレセのミナレット(塔)からの眺めメドレセの中でも最も古いウルグベク・メドレセの少し傾いているミナレットからの眺めのサムネイル画像上を見上げながら、緻密なタイル模様に感心したり、大きすぎて中々カメラのファインダーに入りきらないメドレセを、後ろに後ろに下がりつつ写真に収めていた。すると突然、
「メドレセのミナレット(塔)に登ってみないか?」と声をかけられた。声の主は警官だった。これが情報ノート(バックパッカーが集まる安宿によく置いてあり、旅の情報を書いたり自由に見たりできるノート)の書き込みにあった、賄賂を払うと、本当は登ることが出来ないミナレットへ登らせてくれる警官。折角なので、この話に乗ってみる。メドレセの中でも最も古いウルグベク・メドレセの少し傾いているミナレットに登ることになった。

ミナレットからサマルカンドの眺望南京錠のかかったドアを開けミナレットの内部にはいる。ここで賄賂の3,000スム(280円)をわたす。「塔の階段は狭いから、一人ずつ登っていけ」と言われ僕らだけで35mを登っていった。本当に狭く薄暗い螺旋状の階段を、ぐるぐると登っていくと日が差してきた。頂上だ。人の頭一つがヒョッコリと出せるくらいの穴が開いている。
ミナレットから見える景色は中心地からのサマルカンドが一望できる。それにしても"空を支える"ためにあるといわれるミナレットの天辺から頭を出しているのは、滑稽な感じがした。

サマルカンドでの一日(2006/05/31)

朝早く起きて観光しようと心がけて寝たのはいいが、またしても起きると昼だった。同じところに滞在していると、不規則になるのがいけない。とりあえず、観光に出かける。

ビビハニム・モスク今日は、"ビビハニム・モスク"と"シャーヒズィンダ廟群"を見に行く。まずは、ビビハニム・モスクへ。近づくにつれて、迫ってくる大モスク。「ごめんなさい」とでも言いたくなるようなくらいデカイ。この前見たレギスタン広場の三つのメドレセよりも一回り大きい。中央アジア最大のモスクだそうだ。ここは、世界に比べるものがない壮大なモスクを造ろうとティムールが決意したことから始まる。建設には帝国各地から、多数の職人や労働者、象を駆使して、ティムールの死の一年前、1404年に完成した。

ティムールが誇るこのモスクは、彼の言葉通りまさに壮大だった。しばし圧倒されて立ちすくみながら眺めていると、『モスクに登らないか?』と、ここでも誘いがあった。今度は警官ではなく、物売りの兄ちゃんだった。『いくら?』と聞くと『5ドル』という。
僕『それは、ちょっと高いよ・・』
物売り『じゃあ3ドル、日本人だから3ドルにしてあげる。アメリカ人なら10ドルだよ』
僕『・・・3ドル?うーん、3000スム(280円)では?』
物売り『OK!、じゃあ鍵取ってくるから、待ってて』
といい、コソコソと管理人部屋みたいなところに行き、鍵を取ってきた。同時に12,3歳くらいの女の子を連れてきて、『これは、僕の妹。彼女が案内する』と言う。女の子に連れられて、モスクに登る入り口に行く。リーは足が痛いからと広場で待つことになったので、僕一人だった。

ビビハニム・モスクからの眺め南京錠の付いた鉄格子を開けて、こっそりと中に入っていく。入るとレギスタン広場のミナレットと同様に、螺旋階段状になっているのだが、内部は光の射す穴が開いていないので、まったく前が見えない暗闇状態だ。前を先導してくれている女の子の声だけを頼りにして歩く。歩くのだが階段がたまにボロボロに崩れていて、階段の役目を果たしていない。ただの急斜面になっている所もあり、注意しないと引っかかりもなくそのまま下まで落ちていく可能性もある。高所恐怖症はもちろんのこと、暗所恐怖症、閉所恐怖症の人は、止めておいたほうが無難だろう。リーが足が痛いからと言って止めたのは正解だったかもしれない。何度か引き返そうかと思ったが、「降りる方がもっと怖いやん」とか考えながら登っていると、日の光が射してきた。頂上に着いたのだ。女の子に聞くと、なんと45mだそうだ。レギスタン広場のミナレットよりも10mも高い。写真を撮ろうと天辺から身体を乗り出すと、女の子が『駄目、バレるから、ちょっと顔を出すだけ』と言われ、こっそりと45mの上から見たサマルカンドを撮った。

ビビハニム・モスクを案内してくれたウズベキスタンの女の子たち予想通り、登りより降りの方が危ない。ちょっと足を滑らすと酷い目にあう。なによりも、僕が足を滑らせて落ちていくと、前を歩く女の子も道連れにしてしまう危険性があるので、細心の注意をはらい、少しずつ降りていった。ようやく、地上に降り立ち、改めてモスクを見上げると登る前よりも大きく感じた。もう一度登れと言われても、絶対嫌だ。女の子とは握手して別れた。そういえば、彼女は毎日このモスクに登っているんだろうか?聞くのを忘れていた。

昼も過ぎていたので、ビビハニム・モスクの横にある"シヤブ・バザール"で食事を取る。ティムールの時代から"ナン(窯で焼いた平たいパン)はサマルカンド"といわれていたらしいが、食べて納得。たしかに美味い。モチモチとした食感があり、噛むと味が出てくる。他の地域で食べた、ただ硬いだけのナンとは違った。この味と食感なら、日本でもバカ売れするんじゃなかろうか。

ビビハニム・モスクの横にあるお腹も落ち着いたところで、次はシャーヒズィンダ廟群へ行く。ここはティムールゆかりの人々の霊廟だ。入り口の門をくぐると、すぐに階段がある。この階段を数えて登って、帰るときにもまた数えて降りて、行きと同じ数だったら、天国へ行けるといういわれがある。この"天国への階段"を数えながら登ると、奥まで真っ直ぐに伸びた道がある。

シャーヒズィンダ廟群の天国への階段のサムネイル画像ちょうど、運良く登ったときに誰も人がおらず、周りはイスラムの建築物に囲まれているので、まるで中世の町に迷い込んだような錯覚におちいってしまった。一昨年くらいから始まった修復によって、綺麗すぎる感じがするが、それでも十分だった。

シャーヒズィンダ廟群のサムネイル画像帰りも天国への階段を数える、すると行きと同じく段数だった。数が同じだったのは嬉しいけど、42とは・・・日本人からすると不吉な数字。ちょっと複雑な気持ちでシャーヒズィンダ廟群をあとにする。

レギスタン広場のライトアップ

ブハラへ(2006/06/01)

B&Bの朝食を食べて、いざブハラへ移動する。チェックアウトのときにB&Bの親父さんから聞いた情報によると、サマルカンドの北にあるウルグベクという所からタシケント→ブハラ行きの走っているバスをつかまえると良いと教えてくれた。さっそくウルグベクに行ってみると、ちょうどブハラ行きのバスが通りがかったので、便乗させてもらった。

バスに乗ってから4時間半かかって、ブハラの北にあるカラヴァン・バザールに到着した。そこから、路線タクシーに乗って、ブハラの中心街へ行く。ブハラの町はサマルカンドよりも、さらに田舎町だった。しかもあまり修復作業も進んでおらず、その古臭い感じが余計に古都の雰囲気をだしている。それにしても小さな町だ。この町の見所がほぼ1km四方に集中しているので、やろうと思えば半日で観光を終えてしまいそうだ。

茶色の町ブハラ(2006/06/02)

起きると、昼だった。またかよ。疲れていたんだから仕方が無い。外に出てみると、雲一つ無い、真っ青な空。それだけならいいけど、猛烈な熱風が吹いていて、非常に暑い。6月になったばかりで、もう日本の真夏日並だったら、8月とかどんな気温だろう。
ブハラは小さい町だ。少し歩くだけで、すべての見所を見れてしまう。しかし町のすべてが土で出来ていると思えるほど茶色の一色の町並みだ。旧市街地を散策していると、整然とした青の都"サマルカンド"とは一線を駕した良さがあり、僕はこの町が気に入った。

ブハラのまちのサムネイル画像カラーン・ミナレットのサムネイル画像ちょっと歩くとすぐ町のメインである"カラーン・ミナレット"の前に来てしまった。この塔は46mの高さで、ブハラのシンボルとなっている。建設もカラハーン朝の1127年となかなか古い。
塔には登ることが出来るというので、さっそく登ってみることにした。ここはサマルカンドのミナレットやビビハニム・モスクみたいに非公式ではなく、公式に塔に登る用の切符が売られている。登ってみると、ブハラの町並が一望できた。公式なのでサマルカンドの時のように、コッソリと頭を出して、人目を気にしながら写真を撮る・・・なんてことをしなくていいので気が楽だ。時期的な関係なのか、他に観光客が全然見当たらないのも良い。それにしても高い。この塔は昔、死刑場でもあった。袋に詰められた死刑囚をそのまま投げ落としたらしい。カラーン・ミナレットからのブハラの眺めのサムネイル画像

カラーン・ミナレットからのブハラの街並みバザールに行くと、「こんにちは、バザールでござーる!」との声、振り向くと土産物屋のおばちゃんだった。誰だ教えた奴(笑)
ひやかしに見てみると、伝統民芸品のスザニ(刺繍を施したこの国伝統の布)などが並んでいる。値段を聞くと、$15という。普通に高いよ。すると、おばちゃん「高い高くない」と言う。どっちだよ。結局、$7くらいまで下げたけど、相場がよくわからないので、やっぱり買うのを止めておいた。帰り際に「6ドルでいいよ」とまでいわれた。どこまでふっかけてんだろう。

ビヴァへ(2006/06/05)

古代ペルシャ時代からカラクム砂漠への出入口として繁栄した、現在はトゥルクメニスタンの国境近くにあり、アムダリヤ川下流のオアシスの町である"ヒヴァ"に向かう。ヒヴァはサマルカンドやブハラと同じく、町全体がユネスコ世界遺産に登録されている。

昼頃に宿を出て、情報ノートに書いてあった、ヒヴァ行きのバスが出ているというカラヴァン・バザールへ行く。しかし行ってみると、バスが出るのは夕方7時らしい。これから7時間も炎天下の中を待つのは辛いので、先ほどから呼びかけられているタクシーで行くことにした。交渉して、一人15,000スム(1,350円)でヒヴァまで行ってもらうことになった。乗り合いタクシーなので、他に2人の現地人が乗っている。後部座席に大人3人座らされている状態だ。この窮屈さだったら、バスの方が楽かもしれない。しかも、砂漠のただ真っ直ぐな道を走っているだけなので、退屈だし猛烈に暑い。隣の人と密着している分、余計に暑い。およそ6時間の我慢大会を終えて、城壁に囲まれたヒヴァの内城"イチャン・カラ"に着いたのは、夕方8時だった。

夕焼けに染まるビヴァさっそく、ガイドブックに載っていたミルザボシという宿に行き、一泊いくらか聞いてみると、ベットが置いてあるだけの廊下のような狭い部屋で、なんと一人$10というふざけた値段を提示してきた。交渉する気力も失せたので、すばやく、違う宿を探しに行く。少し歩くと、ホテルの客引きが寄ってきた。といってもまだ10歳くらいの女の子だ。『私の父親がやっているホテルに来ない?安いし、綺麗で、朝食もついてるよ』となんとも流暢な英語で話してくる。特に行く当てもなかったので、ついて行くことにした。
女の子に案内された先は、イチャン・カラ内にあり場所も悪くないイスラームベックという宿だった。ここは小奇麗でエアコンが付いていて、しかもバスルームまである。言い値は一人$8だったが、『3泊するから』と言って、二人で$15にしてもらった。やはりガイドブックは当てにならない。

夜のビヴァ朝から水しか飲んでいないので、疲労と空腹で極限状態になっている。栄養補給をしないとえらいことになるので、ちょっと晩いが食事をしにいく。それにしても、日が落ちてからのビヴァの雰囲気はどうだろう。青の都サマルカンドや茶色の町ブハラとは、まったく違う。闇夜に雲一つ無く、月明かりに照らし出された町並みを歩いていると、まさに中世にタイムスリップしてしまったかのようだ。かつて、ここに存在した中央アジア最大の奴隷市場のことや、残虐非道なヒヴァの歴代ハーンの仕業を想像すると、今にでも何者かに襲われそうで怖くなってくる。

ヒヴァの一日(2006/06/07)

ブハラもそうだったが、ヒヴァに来てから雲を一つも見ていない。ここらは、一年の内300日も雲一つ無い天候だそうだ。だから、この地域をホレズム(太陽の国)という。それを聞いたら余計に暑くなった。昼間はあまり外に出たくなくなる。実際、ここの住民たちも真昼に外を出歩いている人は少なく、夕方になってから人通りが多くなる。ドラクエっぽいといわれるヒヴァのサムネイル画像

ヒヴァ観光ヒヴァで観光といっても、あまりに狭い範囲に見所が密集しているので、見るべきところは来た日に全部見てしまった。とくにやることも無い。かといってジッとしているのもなんなので、カメラ屋に行く。この前、デジカメのデータをノートPCに移すためのUSBアダプタが壊れてしまったので、データの移動をしてもらおうと思う。ハードコンタクトレンズの保存液が中国で無くなった時は、代わりに塩とミネラルウォーターを買ってきて、食塩水を作り、それを保存液にするなど工夫のしようはあった。(中国ではソフトレンズ用は沢山売っているけど、ハードレンズの保存液は売っていなかった。未だに保存液は手に入れていない。)しかし、電子機器が壊れたとなると、どうしようもない。デジカメのメモリも残り少ないので、新しいUSBアダプタを購入できるまでの代替措置なのだ。

カメラ屋に行って、SONYのデジカメのメモリースティックを見せて、データの移動は出来るのか聞いてみると、意外にも出来るとの返事だった。しかし、いざやらして作業っぷりを見ていると、ものすごく慣れてない手付きで、強引にメモリを押し込もうとする。本当に壊されそうだ。そして、1GBのメモリの存在にもビックリしていた。SONYの最新デジカメや中国で買ったモバイルHDDも、やっぱり珍しさから興味深々に弄りまわされてしまった。やっと繋がったと思っても、USBの転送速度がムチャクチャ遅い。1GBのメモリスティックのデータを読み込むのに15分くらいかかった。
ようやく読み込みが終わって、今度は持ってきていたモバイルHDDに転送する時が一番大変だった。ここのカメラ屋が使っているパソコンのOSが、運の悪いことにWindows Meだった。このOSは海外でも、僕を困らせてくれた。転送中にどんどんメインメモリを消費し、使ったメモリを放さない。案の定、メモリが足りなくなるとエラーを起こしてフリーズだ。カメラ屋には店員が5人ほどいたが、皆あまりコンピュータに詳しくないようだ。気がついたら、何故か僕がパソコンを直して、自分で転送作業までしていた。表記がキリル文字のWindowsだが、アイコンなどの表示位置は日本版と同じなので、なんとかなるもんだ。
こんなに頑張って作業したのに、代金とられた。ちくしょー!

タシケント再び(2006/06/10)

4日間、ヒヴァでお世話になったB&Bイスラームベックを出て、バルト三国・ラトヴィア行きの飛行機に乗るために、首都タシケントに戻る。ヒヴァさようなら。そしてアジアさようならだ。よく考えたら、シルクロード陸路横断という目標も中断された形になってしまった。

タシケントへは、ヒヴァからよりも、近郊の町であるウルゲンチからの方がアクセスが良いので、まずはウルゲンチに移動する。ウルゲンチへは路線バスで1時間半ほどの位置にあるのだが、ウルゲンチ行きのバス乗り場に行ってみると、お客がいっぱいにならないと出発しないタイプのミニバンが客待ちしていた。しかし、誰も乗っていない。こんなのを出発まで待っていたら、さらに一時間近くの時間を消費してしまうだろう。なのでタクシーで行くことにした。なんだかんだで融通利くし、なによりも安い。ふっかけて$5と言っていたのを、交渉して二人で1,500スム(140円)で行ってもらった。

さて、タシケントへはココからおよそ1,000kmは離れている。飛行機で飛んでしまった方が断然楽だと思い、ウルゲンチにあったウズベキスタン航空のオフィスで値段を聞いてみると、なんと$55もするという。インターネット情報では$40ぐらいだったので、飛行機も一つの手だと思っていたけど、こんなに値上がりしているのでは話にならない。

今度は、鉄道ではどうなんだろうと駅に行き、窓口で聞いてみると、タシケント行きは週二便しか出ていなく、今日は出ないらしい。20時間はかかる列車なので、今日中に出発してくれないと、6/11の飛行機に間に合わなくなる。もはやこの時点で問題外だ。残るはバスで行くしかない。あの猛烈に暑い砂漠の道を、寝台でもない普通のバスで何十時間も耐え続けることを想像すると、出来ることなら利用したくない。しかし、リーの残り少ない所持金を考えると、少しでも出費を減らすには選択の余地は無いのだ。

バス停に行き、値段を聞いてみると10,000スム(940円)だという。やっぱり飛行機と比べて格段に安い。「OK、じゃあ乗せて」というと、『もう一杯だから、無理だよ。向こうのバスで行きなさい』と違うレーンで待機しているバスを指差した。そのバスに行って値段を聞いてみると、12,000スムだ。『なんで、値段が違うの?向こうでは10,000スムと言われた』と聞くと『こっちは綺麗でTVあるから』などと言っている。さしてさっきのバスとの違いがよくわからないが、他の乗客等に聞いてみても、12,000スムだと言ってるので、たぶんそうなんだろう。妙に損してる気がしないでもないが、他にタシケント行きのバスが見当たらないので、このバスで行くしかなかった。

バスは午後3時に出発した。1,000kmの道のりを16時間かけてタシケントまで走り抜ける。高速道路などは無いが、砂利道をかなりのスピードで走るから危ない。実際、途中で事故ってる車を見た。それはブハラからヒヴァへのタクシーで利用した大宇製のネクシア同士の正面衝突だった。一歩間違えれば、それは僕らだったかもしれない。さらにウズベキスタンは何故か検問所みたいなのが沢山ある。5,60kmくらいの間隔であるので、その度に一々簡単な荷物検査などがある。面倒な上に寝られない。こんな状況に耐えながら、タシケントのバスターミナルに着いたのは、翌朝8時だった。

ターミナルに着くと、案の定ものすごい数のタクシーの客引き、何度追っ払っても次の奴が話しかけてくる。実に無駄な動きだ。何度『ニェット(否定)』と言ったことか。すると、肩を叩いてくる人がいて、「しつこいなーなんだよ!」と振り向くと、バスの中で身振り手振りで話した兄ちゃんだった。なんかよくわからないけど、どうやらメトロまで一緒に行こうと言っているようだ。僕らも、現在地がよくわからなかったので、願ったり叶ったりだ。それにしても、ここのタクシーの質が悪い。この兄ちゃんにも、「俺の客を奪うな!」と絡んでいた。

メトロまで歩いている途中、兄ちゃんの親父さんが丁度車で通ったので、呼び止めて嬉しいことに僕らも乗せてくれた。わざわざ回り道になるのにもかかわらず、今日泊まろうとおもっていたホテルまで、連れて行ってくれた。思った以上にバスターミナルからは遠く30分ほどかかった。兄ちゃんの名前は、VALIさんという。ワザワザ電話番号まで教えてくれて『何かあったら電話してきて』と言って別れた。実に親切な人だ。僕も日本で困っている外国人に、こういう親切が出来るようになりたい。
あとは飛行機が出る時間まで、ホテルで寝ることにした。飛行機は朝7時発なので、空港に5時前には居なければならない。